亡くなった父に導かれ、人間を見つめる場 創設へ

私の医療・介護物語

25.03.07

亡くなった父に導かれ、人間を見つめる場 創設へ

《私の医療・介護物語–佐藤伸彦》 第二話

 

高齢者医療や終末期医療に関わるようになった、この「私」を、幼少期からひも解いてみることは「ものがたり」という視点からも興味があることです。
思い返せば小さい時から私の周りには家具のように本がいろいろなところに置いてあり、生活の一部として本がある中で育ちました。
私の父は医師の家系でしたが、大の医者嫌いで、家を継ぐ気など全くなく、両親のたっての願いで受けて合格した医学部を蹴って文系の大学に進んでいます。
戦争反対の立場を取っていたらしく、いろいろと迫害を受けていたようです。戦後すぐには今の平凡社で働き、紙が(原稿用紙)ない時代で苦労したと言っていました。
また当時は文壇の人たちの世話もしていたようで、北杜夫などが車座の末席にいたとか、三島由紀夫と飲みに行ったとか、本当のことは定かではありませんが文學界の片隅で生きていたようです。
そして本人も牧和夫というペンネームで小説を書いています。
岩手県の小岩井農場で書生の生活を送りながら母と文通をして結婚しています。
東京都の新人賞を取ったことがあるようですが、作家として食べていけるわけもなく、結婚してからは家族を養うためにサラリーマンをしていたようです。
でも、そんな父が突然心筋梗塞で亡くなりました。50代の若さでした。
私が小学校2年生の時です。朝起きたとき、父が死んだと私はわかっていました。誰にも知らされることもなく死というものを意識したのです。忘れられない不思議な体験でした。
父のことで覚えているのは、着流しのような着物を羽織って缶ピースを常に燻らせながら、万年筆を片手に原稿用紙と睨めっこしているという後ろ姿です。
私は今65歳ですから父親の死んだ年をもう優に超えているのですが、心の中ではいつまでも若く、大きな身体で寡黙の父しか浮かんでこないのです。
今父が生きていて、ゆっくりと話をできたらどんなにか良いかと思う一方で、心の中では死んだその時のままで話ができることの良さも感じています。

本をたくさん読みました。父親の何かを受け継いだのでしょう。

 

父の受賞作品「七面鳥と豚」保高徳蔵氏の推薦状(父の受賞作品「七面鳥と豚」保高徳蔵氏の推薦状)

 

人は死ぬと使者(死者)として生者に心に生まれる

私が中学生の時に一番読んだのは山本周五郎という作家です。
直木賞に選ばれながらも、これは読者がもらうもので私がもらうものではない、と受賞を辞退した気骨の作家です。

「樅ノ木は残った」「さぶ」「日本婦道記」「赤ひげ診療譚」
など有名な作品は多いので皆さんもご存知でしょう。
中高、大学、50代と3回ほどほぼ全部を繰り返し読み返しています。
作品の中に流れているのは、人間のどうしようもない「弱さ」と「哀しみ」だと感じます。

「人間は哀しいもんだ」という言葉が此処かしこに出てきます。
それをずっと抱えながら私は医師になっていくわけですが、たくさんの死に逝く人たちを診て、人間はみんな、したたかに生きていて、一筋縄ではいかない生き物だと思います。

使者としての父の教えに導かれ、病気だけではなく、人間を見つめる場・空間であるナラティブホームが始まったのです。