《私の医療・介護物語》その他
25.03.28
《私の医療・介護物語》 第四話
標題:私の中に生き続ける
「使者」としての父
多くの高齢者、そして終末期の患者さんを診させていただいてきた中で、日本人の死生観について考えてみたくなります。いろいろな本も読みましたが、あまりピンときませんでした。まず、日本人ってなんだろう、というようなところから躓いているので先に進み
ようもないです。
日本人と一口にいいますが、一体、誰のことなのでしょうか。
例えば今生きている日本人も100年もすると、ほぼ全員が入れ代わっています。そうやって長い年月「日本人」は続いています。何があれば日本人と言えるのかわかりませんが、連綿と続いているものがあって、その中の一つに死に対する考え方(死生観)があるの
でしょう。少なくとも科学的に証明された事実というものではなく、私たちが「感じた」ものの総和なのかもしれません。
そこで、日本人の死生観を考えるのではなく、まずは他ならぬ、この「私」の死生観を考えてみようと思いました。
前回までに書いたように、私は小学校2年の時に父を亡くしています。早朝に突然亡くなったのですが、私は起きた時、母に知らされる前に「あ、父さんは死んだんだ」とわかっていました。その時の感覚はいまだにしっかりと覚えています。
その時から、間違いなく私の中には(心の中なのか、脳の中なのかを考えるのは野暮でしょう)父が今でも存在しています。
何かを考えているような仏頂面で、かつ、笑っている顔です。矛盾しているかもしれませんが表現するとこうなのです。無名の文筆家だったのですが、煙草(必ず缶ピース)をくゆらせながら着流しのような和服を着ている姿でいます。
私はすでに亡くなった時の父の年齢を優に超えているのですが、私の中ではいつまでも同じ年齢で「生き」続けています。
ニライカナイからヤハラヅカサへ
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