私の医療・介護物語
25.05.13
《私の医療・介護物語—佐藤伸彦》 第七話
今回は「看取り」という日本独自の言葉について考えてみましょう。
「看取る」とは、大辞林によれば「病人のそばにいて世話をする。また、死期まで見守る、看病する」とあります。
「看」という字をよく見ると目と手という文字から出来ていて、目の上に手をかざして遠くをみると言うところからその意味は来ているのでしょう。
最近では、死を迎えることそのものを指すようにもなってきています。
2013年度の「看取り介護実践フォーラム」で、
看取り介護とは「近い将来、死が避けられないとされた人に対し、身体的苦痛や精神的苦痛を緩和・軽減するとともに、人生の最期まで尊厳のある生活を支援すること」
とされています。
終末期ケア、緩和ケアなどは大筋で同じことを意味しているように思います。
古くは「臨終行儀」と言う言葉が日本にはあります。
臨終(人が亡くなる間際や瞬間)の際に行う儀式や作法のことを言います。
それをまとめたものとして有名なものは平安時代の僧・源信が書いた「往生要集」や鎌倉時代に書かれた「看護用心抄」があり、ここにすでに「看」という字が使われています。
看取りは死にゆく人を見る作法であり、宗教がその多くを担ってきました。
明治以降に西洋医学が入ってくることにより病院での死が多くなり、看取る担い手が宗教関係者から医療関係者に変化しました。
そして現代は超高齢社会になり、施設や自宅で最期を迎える人が増加し、看取りの多くの事が介護に回ってきたと考えることができるのではないででしょうか。
私は「介護福祉の終末期ケア」という丸一日かけての研修会を5年以上続けています。
そこでは100人近い参加者から事前の質問を受けるのですが、その内容は判を押したように、看取りケアとは何か、看取りケアを教えて欲しい、というものが出てきます。
「看取りケア」というものがあってそれは今までのケアと一線を介した別物だと思っておられる方が多いのですがそれは違います。
ある時期から突然看取りケアなるのものが始まるのではありません。
目の前の人は途切れ途切れの断片的な人生を生きているのではなく、一人の連続した生を生きているのです。
いつの時期でも、その人が苦しまないように、辛くないように、安寧にいられるようにケアをすれば良いのだと思います。
死ぬ直前まで私たちは汗も書けば排泄もするのです。
介護保険では「看取り加算」というものがあります。
その時はいつから看取りなのかという区切りをしなくてはなりません。しかし、「今日からAさんは看取りです」といわれてからはじまる「ケア」とは何なのでしょうか。
私は、看取りとは一種の「作法」だと思っています。
死にゆく人の人生の最期を精神的に身体的に社会的に「整える」ことではないでしょうか。
介護、看護、医師それぞれの立場で出来ることをしてチームとして全人的に「整える」ことが大事だと思います。
人生最後の作法