私の医療・介護物語
25.05.15
《私の医療・介護物語–佐藤伸彦》 第八話
若い頃はついつい、自分探しの旅に出たい衝動に駆られます。
今の自分は本当の自分じゃない、どこかにきっと本当の自分がある、それを探しに行くんだ、と力んでいたように思います。
その旅は自分を見つめ深く、深く、自分の内面を降りていくような感覚でした。
大学生の時に人との接触を意図的に避けていた時期がありました。
数カ月、必要なこと以外は話さず、アルバイトと本を読むことに時間を費やしていました。
自分の内面と対話をしたかったのです。
本当の自分、目指すべき自分を探していたのでした。
皆さんもそんな経験がおありではないでしょうか。
自ら考え決断し自分というものをコントロールできる理性のある存在になりたいと思っていたのですが、そのようなものになれるわけがなく、袋小路に入ってしまったようでした。
「感情」という厄介なものとの戦いだったのかもしれません。
どんなに冷静に理性でものを考え、自分というものを律することができたとしても、感情はいとも簡単にその理性というハードルを飛び越えてきます。
理性というハードルは元々ないのかもしれません。
怒り、苦しみ、悲しみ、それらを理性で押さえ込むことは私には無理でした。
できることはその飛び越えてくる感情を無かったことにする術を学ぶことでもなく、受け止めるような寛容な理性を求めることでもない。
後から静かなところでゆっくりと「自分」を見つめて時間をかけて対応するのでは遅いのです。
日常の現実という厄介な場で感情にどう反応すれば、「今を」一番良い方向に向かわせることができるのか、それを鍛えることだと思いました。
その中で私には、そもそも「本当の自分がある」ということを誰が保証してくれているのか、という疑問が湧いてきたのです。
私を設計しこの世に生み出したものは神なのでしょうか、何か別の偉大な存在なのでしょうか。
画家ポール・ゴーギャンの有名な作品「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を眺めながらそう思ったのです。
私がみている私と、他人がみている私とは違うことはよくあることですが、それは他人の数だけ「私らしさ」というものがあるということではないでしょうか。
自分というものは、自分の内面に深く入り込んでいくことで見えてきたものだけではありません。自分というものを理解するには絶対に他者が必要なのです。
他者との交流の中で初めてどのような自分が生成されているのかがわかるのです。
たった一人の確固たる自分なんていないのです。
私という生き物は決して一つには定まらず常に変化し成長し、「私になっていく」存在です。
5歳から10歳まで猿と一緒に育ったマリーナ・チャップマンの「失われた名前」を読むと、それがよくわかります。
私は「ものがたり」でできている。
あなたも「ものがたり」でできている。
私が「ものがたり」という言葉を使う時、そういう意味が込められています。
「ものがたり」とは
「空」であること
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